北海道ツーレポ(最北へ) 用意万端というか、自分のバイクを知り尽くしているというか、驚くばかりであった。 3年連続で北海道に来ているのだが、ホクレン(ガソリンスタンド)の旗を3年分靡かせながら走っている。 ホクレンのスタンドで給油すると、3色の旗が貰える。 私は1回しかホクレンでは給油しなかったので、緑色の旗だけ。 時刻はまだ6時前だった。 話は尽きなかったが、6時から風呂に入れるので、部屋にとって返し、タオルを持って風呂に行った。 風呂から上がり、タバコを吸える所に行って、日記を書いた。 書いているうちに雨が降り始めた。だんだん強くなってくる。 また今日も雨の中を走らねばならないのかと思うとうんざりしてくる。 テレビの情報では台風10号が温帯的圧になって、北海道に覆い被さってきているという。 明日がそのピークになるそうだ。旅も終わりに近づいて、これでもかというほどにすっきりしない天気が続く。 7時から朝食。また3人で並んで食べる。 夕食に比べると遙かに少ないが、普通の民宿の夕食くらいの量だ。刺身まで付いている。 朝から刺身かよ、と驚いた。 一通りおかずを食べると、ご飯はほんの少ししか食べられなかった。 朝食後、船長の家が割引券をくれた海鮮市場に行ってみたが、 干物にハエが集っているのを見て、家に送るのは止めた。 部屋に戻って天気予報を見ると、今日はまだ降水確率は低かった。 しかし外を見ると雨足は衰えない。 小止みになったら出発しようと心に決めて、荷物の整理を始めた。 今日は宗谷岬を経て稚内まで300キロ走らなくてはならない。 雨の中の300キロは辛いが仕方がない。小止みになるのを待っている間もいろいろと話した。 スクーターのタニさんも宗谷方面に走るという。 途中はオホーツク街道であるが、あまり見るべきものはないようだった。 ただし神威岬は寄ってみるといいですよ、と教えてくれた。 雨はようやく止んだ。荷物を持ち、カッパのズボンを穿いて、部屋を出る。 道雪さんもタニさんもまだ出発する気はないらしく、浴衣のままである。 当て所のない旅の余裕である。次はそんな旅をしてみたい。 お世話になった道雪さんに別れを告げる。 道雪さんは盆過ぎまでは北海道にいるらしい。 また九州で会いましょうと約束し、船長の家を出て、駐車場のバイクに荷物を括り付ける。 今日のツーの始まりだ。空からの雨はないが、路面はびしょびしょに濡れている。 国道238号を走る。サロマ湖が見え隠れするが、さほど感動的な風景ではない。 ゆっくりと眺める心の余裕がないせいだろうか。稚内まで280キロ以上。 しかし、このような道が続けば、4時間で宗谷までは行けるだろうと計算する。 サロマ湖を過ぎ、オホーツク海が見えてきた。雨はすっかり止んで、眺望も利くようになってきた。 海に近い路側帯にバイクを止め、道を渡って海岸に降りてみた。 波は穏やかである。砂浜にしばらく座り、寄せては返す波を見ていた。 最北の海まで来たという実感も感動もなかった。なぜだろうと思う。 心が涸れているのかもしれない。寂しい限りだ。 うっすらと霧が懸かり始めた。 雨でなければ霧。なんという天気だろう。 走っているととても寒い。気温の表示が19度とあったが、体感温度は10度くらいか。 バイクを再び止めて、ジャケットの下に長袖のTシャツを重ね着する。 北へ向かっていることを実感する。 紋別、興部という地名が標識に見えてくる。 土地勘がない所を走っていると、どこがどこか分からない。 また紋別も門別も読みは同じ。士別も標津も同じ。江差も枝幸も同じ。 音だけ聞いてもなおさら分からない。 オコッペという地名は変わっているので記憶にあったが、「興部」と書くとは知らなかった。 帰りのフェリーの中で、興部の警察署長が自殺したという新聞記事を読んだ。 不正経理の責任を取ったらしい。どんな場所でも人間のいる限り、同じようなことは起こる。 「雄武」という所で休憩した。 「雄武」は「オウム」と読む。「オウム真理教」を思い出してしまった。何も関係ないのだが。 北海道の地名は分かりにくい。 下に書いてあるローマ字で確認しようとする度にバイクのスピードが落ちるということは先に書いた。 オホーツク国道は路面は少し悪いが、まっすぐな所が多く、走りやすい。 トラックが80キロ以上で走る。その速度で付いていくのが一番楽だ。 幌内、音標、乙忠部と海沿いの道を快適に飛ばす。「ウスタイベ千畳敷」という所があった。 向こうから来たハーレーがその方向へ曲がったが、私は先を急いだ。 やがて「神威岬公園」という表示が見えた。そこへ右折して入っていった。 北側に神威岬が見えて、冷涼とした空気が張りつめている。 岬の上半分は低い雲に覆われて、灰色の神が降臨しているように見える。 写真を一枚撮り、神威岬の先端へ行った。崖に灯台がへばりついている。誰もいない。 道はこの辺りから「宗谷国道」と呼ばれているのか。マップルにはそう書いている。 「横風が常に強く吹いている」とも書いてあったが、今日は全く風はない。 風が吹けば霧や雲も晴れるのかもしれない。 「猿払村」を過ぎ、「クッチャロ湖」の側を過ぎる。 この辺は湿原になっている。大小さまざまな沼がある。 猿払公園で休憩した。道の駅がある。 バイクが4〜5台あって、それぞれベンチなどで休憩している。 道の駅で缶コーヒーを飲んで、出発しようと思い、エンジンを掛けようとすると、ウンともスンとも言わない。 「えぇ〜っ!?」と思う。ちゃんとキーは挿してある。ランプも点いている。 『こりゃ、ロードサービスを呼ばねばならないか?』と焦った。『これでツーリングも終わりか?』 私がヒューズボックスを開けてみようと焦っていると「どうかしたんですか?」とライダーが寄ってきた。 「いやぁ、エンジンが掛からないんですよ」と言うと、「キルスイッチじゃないですか」と言う。見ると、オフになっていた。 私はこけない限りはキルスイッチは絶対に使わない。間違って押したこともない。 私はコーヒーを飲んでいる間に、誰かが悪戯をしたのだろうかとも思ったが、分からないものを追究しても仕方がない。 さっさとエンジンを掛け、出発した。エンジンが掛かることの有り難さ。普通であることが一番だとつくづく思った。 一気に宗谷岬まで走った。 オホーツク海側には漁港がないと聞いていた。 そう言えばそうだと思いながら鈍色に沈む海を右手に見ながら走り続けた。 冬は流氷がきしみながら押し寄せるに違いない。それに入り江がほとんどない。 これでは船が停泊出来ないだろう。 緩やかに湾曲した海に霧が懸かり始めた。気温はますます低くなる。宗谷岬はすぐそこだ。 九州から一番遠い地。遙々とやってきたのだが、遠かったとも思わなかった。 走り続けていれば到着する地である。今のところ、日本ではこれ以上遠くには行けない。 晴天ならばサハリンが見えることもあるらしいが、霧はますます激しく、眺望は利かない。 最北の地の駐車場には車は勿論、バイクも様々な所からやって来ている。 次から次へ碑の前で写真を撮る人がいる。その合間を縫って急いで一枚写真を撮る。つ いでに間宮林蔵の像を撮り、最北の碑の向こうで家にメールを入れる。「着きました」と。 まだ2時半ぐらいだった。大阪に住んでいる娘に蟹を送ってやろうと思い、稚内の海産物屋に寄る。 ガソリンスタンドで「この辺で一番いい海産物屋はどこですか?」と聞いた。 国道から海際に一本入った道の所にそれはあった。地元の人がたくさん買いに来ている。 北海道の海の幸が溢れている。羅臼の道の駅も良かったが、その数十倍も品物が置いてある。 花咲ガニ2杯とタラバガニ1杯が3000円。安い。 その海産物屋の前の道をまっすぐ行くと、野寒布岬だ。 今回のツーリングでは最後に寄る岬。記念碑があり、灯台と海浜パークのようなものがあった。 ここにもライダーが次々にやってくる。 記念碑の前で写真を撮り、すぐに出発した。 岬を回って出来れば利尻富士を見たかった。道道254号を南下すると、すぐに利尻富士が見え始めた。 少し霞んでいるが、稜線は見える。もっと大きく見えるかと思っていたが、それほどでもない。 次に来るときには、利尻島に渡ってみたいと思わせる山容だった。 更に南下し、稚内市内へ向かう106号へ左折する。すぐに夕日公園というのが見えてきた。 そこにバイクを止め、利尻富士を背景に一枚写真を撮る。 106を走り、稚内市内へ。この市内も少し分かりにくかったが、 40号のどん詰まりが稚内駅で、駅前から道道106が始まっている。 一旦駅まで行き、そこを起点に今夜の宿所「モシリパユース」を探す。 この辺りだと検討を付けて床屋で道を聞いた。主人は「そこの路地を入ってすぐだよ」と教えてくれる。 「看板も出していないから、よく聞かれるんだよね」と言う。どんな所だろう、と心配になった。 ついでにこの辺で美味しいものを食べさせる所はありませんかと尋ねると、親切に50メートルほど歩いて、 その店が見える所まで案内してくれた。 モシリパユースは予想に反してきれいな所だった。 ただし民家の間にあるので、駐車場が狭い。 すでに5台くらいバイクがあり、一応屋根がついた所に止めるためには急な傾斜を上がらなければならない。 上がってすぐに平らになっており、目の前にバイクがあるので、すぐに止まらなければならない。 私のバイクでは苦手な傾斜だ。下を擦ってしまう。 嫌な予感がするけれど、一気に上がる。案の定、ガリッと嫌な音がした。 二重になった玄関を入ると、オーナーが出迎えてくれた。対応は親切で感じがいい。 余計な荷物を置く納戸もある。ヘルメットやバッグをそこに置き、部屋に入る。先客が2人いるようだった。 荷物を整理していると同室の2人が入ってきた。 日本人の青年と中年の外国人だった。親しげに話していたので、2人で一緒に旅行しているのかと思った。 「よろしくお願いします」と挨拶する。 溜まった汚れ物を洗っておこうと、洗濯機を掛けているとその二人がやって来た。 外国人の方が英語で洗濯機の使い方を教えてくれる。 私が洗剤を探しているのを、使い方が分からないのだと勘違いしたらしい。 それをきっかけにして、青年も含めた3人で話し始めた。 ちょうど横に冷蔵庫があり、大きな瓶に代金を入れればそこから取り出して飲める。 まず私が3本買い、2人に勧める。 飲んで話すうちにすぐにうち解けて、いろいろな話が出始める。 青年は神戸から来ているという。鉄道マニアで、暇を見つけてはあちこち回っているらしい。 外国人はデンマークの人だと分かった。青年はかなり英語が堪能らしく、すぐに返事をしている。 私も下手な英語で答える。聞き慣れるに連れて分かりやすくなってきた。 彼にとって英語は母語ではないが、早口でどんどん喋る。 私たちが分からない顔をするとすぐに分かりやすく言い直してくれる。 英語の他にドイツ語とフランス語が喋れると言って、それぞれの言葉で同じことを言ってくれた。 勿論私には分からない。 日本語も2年間習ったと言うが、あまり上手ではない。語尾の変化と助詞が難しいと言う。 彼は4度目の訪日だと言う。 日本人の友人もあちこちにいるらしく、明日利尻島に渡り、2日間滞在してすぐに東京に戻り、 友だちと会うことになっていると言った。 彼はコペンハーゲンで書店を経営していると言った。 部屋に戻るとデンマークを紹介した本を持ってきてくれて、いろいろと話してくれた。 今までいろいろな国の人と話したことはあるが、 デンマーク人は初めてだったので、とても興味深かった。 いつか行ってみたい。 2本目は彼が買い、洗濯が終わるまで談笑した。 夕食を一緒に食べに行こうということになり、私が紹介された店に出かけた。 刺身や焼鳥など日本の食べ物は口に合うらしく、器用に箸を使って美味しそうに食べる。 日本酒も好きだと言って、杯をどんどん空ける。 かなり酔っぱらってから、彼はいきなりTシャツをたくし上げた。 胸に大きな傷がある。次に短パンを上げ、太股を見せた。 そこにも大きな傷がある。足の血管を心臓に移植した痕だ。 58歳だと言ったが若々しい彼にも大病を患い、手術した経験があるのだと分かった。 彼が仕事を家族か店員に任せて世界中を歩いている理由が分かった気がした。 一度しかない人生の中で、何を求めて生きていくのか。 したいこととしなければならないことの間でうろうろしながら人生の大半の時間を費やす。 自ら選択した生き方だから、最後まで全うしなければならないのだが、 荷物が重い時もある。これで良いのだと納得させなければ先に進めない時もある。 だが、一度死に直面したとしたら、そこがターニングポイントになるのではないか。 まだまだずうっと明日という日は来続けるのだという勘違いをしているからこそ、 明日も働こうという気になると言ったら言い過ぎだろうか。 彼が傷を見せた意図は私の英語力では詳しく聞くことは出来なかったが、 彼の心の中には自分の生き方に忠実であろうとしている今というものを感じ取ることが出来た。 生き死にということを考えること自体が執着だ。生死も含めて、 纏い付こうとする何ものにも囚われずにその時その時を生きていけたら本当の自由が手に入るような気がする。 だが、私は一生真の意味の自由を手に入れることは出来ないのかもしれない。 続く・・・ |