北海道ツーレポ(旅の終わりへ)
著作・製作 Hanajinさん  Hanajinさんってどんな人?



(美瑛かしわ園にて)

 北海道ツーリング最後の日。
といっても今日の夜フェリーに乗り込んで、明日の夜敦賀着。そのまま走っても到着は7日である。

今朝、中学時代の同級生から電話があって、無事に走っているか聞かれる。
私の家の前に住んでいる奴だ。

出発の前日、彼の娘の結婚式があった。
その時に集まった同級生が無事に帰ったら祝いをしてやると言っていた。

15人ほど集まるという。

その連中とは小学校からの付き合いで、40歳を越えてからより親密に付き合うようになってきた。
担任だった先生も一緒に楽しい付き合いをしている。
予め彼らに食べさせる蟹を送っておいた。も
しかしたら女房のことも知っているのではないかと思ったが、その話は出なかった。


 昨夜はあまり眠れなかった。
電話の後、すぐにユースを出ればフェリーに間に合ったかもしれないが、
すでにビールを飲んでいたし、慣れない道を夜中に走るのは嫌だった。

妻も予定通りでいいからと父に伝言してくれていた。
そうはいっても入院しているとなれば、一時も早く顔を見なければ安心できない。


 一番早く帰る方法は、敦賀から高速で飛ばすことである。
夜中の高速は危ないかもしれない。

当初の予定では敦賀で一晩泊まって次の日に帰る予定だった。
だが、どんなに危なくても明日の夜敦賀から北陸道に乗ると決めた。


 そう決めれば、今日の一日を出来るだけ充実させたものにしなければならないと思う。
落ち着かない思いを抱いたままだが、旅の締めくくりを良いものにしたいと思う。


 朝食後、8時半に出発。バイクはエンジンを掛けてすぐに発車してくださいという注意があった。
そんなことをしたらエンジンが壊れるよと思い、エンジンを掛けないまま丘を下って、
誰にも迷惑を掛けない所でゆっくりアイドリングする。

まずケンとメリーの木の所に行った。若い人は知らないだろうなと思うが、
「ケンとメリーのスカイライン」というのがあった。
その木の下でギターを弾いているコマーシャルだったと思うが、それが撮影された木だ。

木の下には看板があった。大正時代に植えられたポプラで、
大切にしているから木の周囲を踏まないでほしいと書いてある。

ここに入植した先祖はこの木がこんなふうにもてはやされ、
広い駐車場やペンションまで出来ると予想しただろうかと思いながら眺めた。

その木に至る道の入口でサクランボを売っていた。
近くの山麓で採れたものだという。ツアー客が寄り集まって、買い求めている。
私も100円分買ってその場で食べた。甘くて美味しかった。


 美瑛の丘には小さいが分かりやすい標識がたくさん立てられている。
親子の木やセブンスターの木などを巡り、このかしわ園までやってきた。
今日は急ぐ必要のない日程だ。ゆっくりと日記を整理しながら回ろうと思う。


 かしわ園にはその名のとおり、古びた柏の木が何本も生えており、その実がたくさん落ちている。

開拓顕彰碑があり、ここに入植した人たちの苦労を偲び、称える言葉が書かれ149人の名前が刻まれている。
「愛郷百穣」と刻んだ碑もある。
今でこそ美しい丘をなしているが、100年前は原野だったはずで、一から切り開く労働は骨をきしませるものだったろう。

粗末な小屋で冬を堪え忍び、少しずつ切り開いていった歴史を想う。

 静かだ。誰も訪れる者はいない。今日も暑くなりそうだ。
旭川空港に降りているのだろうか、飛行機が見える。かしわ園の奥には神社がある。
赤い屋根と赤い柱。神社を抜けるとその向こうには見渡す限り畑が広がっている。





(フェリー待合室にて)

 かしわ園を出て、美瑛市街に下ると、966号方面の標識が見えたので、そちらへ向かう。
昨夜マップルで確認した十勝岳温泉方面への道だ。

国道より車が遙かに少なく、気持ちよく走れる。
少し走った所で、メロンやトウモロコシを売っている店があったので、バイクを止める。

富良野メロンとトウモロコシを送り、主人と10分余り話した。
966号に限らず、北海道の道では縁石が欠けているのが目に付いていた。
なぜかと主人に訊くと、除雪車のせいだという。

雪は一旦歩道の部分に跳ね上げ、その雪を融雪場に集めて溶かし、ゴミを取り除いて川に流す。
雪が降ればその度にそういう作業が続くらしい。

落ち葉きのこのことも教えてくれた。カラ松の林の下に生えるきのこで、なめたけに似ているらしい。
それを採るのも副収入になるという。

またカラ松の落ち葉というのがやっかいで、屋根に積もったのをほったらかしておくと、
冬に凍り付き、その上に雪が積もって滑り落ちない。
そうなると屋根が重みで壊れる。家の周囲のカラ松を切ろうと思うと言っていた。


 ハスカップラムネというのを飲んだ。
甘ったるくて残したかったが、悪いと思い最後まで飲んだ。

 休憩の後、再び出発。途中の風景もなかなか良かった。
十勝岳に近づくに連れて、だんだん涼しくなる。

十勝岳を望む所に着いた。残念ながら頂上は見えなかったが、振り向けば富良野方面が見渡せる。
高所でもあり、涼しいのが何よりも嬉しかった。


 道道291号へと降り、国道を避けて道道298号を走る。
両側に田圃が広がる。北海道でも富良野周辺には田圃が多い。
もちろん米を作っている。九州では当たり前の風景だが、久しぶりに見る田圃にほっとした。

298号の終わりがけに麓郷へ続く道があった。
ついでにそちらを回っていこうと思ったが、マップルを見るとダート1キロと書いている。
そのまま298号を進んだ。

布部というところで国道237号に入る。金山を過ぎ、占冠の道の駅で休憩した。

 ふと見ると荷物を満載しているヤマハのYB1が目に付いた。島原ナンバーである。
へえ、50ccでここまで来ていると感心しながら見ていると、その持ち主がやってきた。

その人と20分くらい話した。
東京に住んでいたが、ちょっと早めに仕事を辞め、奥さんの郷里である島原に家を建てて移り住んだ。
本人は鹿児島出身。毎年6月に島原を出て、陸路で青森まで来て、北海道に渡り、9月一杯キャンプをしながら過ごす。

羅臼で釣りをした話や、キャンプの方法など、いろいろ教えてくれた。
もう3年連続で来ているという。最初はスーパーカブで、去年はYB1の4サイクル。
しかしこれは非力で峠を越えるのに苦労し、オーバーヒート気味になるので、
今年は中古の2サイクルを探してもらいそれに乗ってきたという。

一年間に5万キロ走るという。
こちらが疲れているせいか、なんだか途方もない話を聞かされているように感じて、しきりに感心した。

私はこのツーリングで3500キロくらい走っている。帰り着くまでに4200キロくらいにはなるだろう。
それでもかなりのものだと思っていたが、一度旅に出れば50000キロとはなんとも凄いとしか言いようがない。
奥さんは何も言わないのですかと訊くと、もう見放していますと答えた。
若い頃から好き勝手なことをやって来て、家庭崩壊の危機もあったらしい。
酒と女に相当金を使ったけど、若いうちからこういう楽しみを知っていたら良かったとしみじみと話す。
こういう楽しみとはもちろん、バイクでのツーリングだ。

今度帰ったら小型免許でも取って、来年はもう少し大きいバイクで来ると言っていた。
またいつかどこかで会えればいいと思う。



占冠道の駅を出発。坂道を下り、日高に出る。樹海ロードを走ってみようと思い、左折。
日勝峠まで約50キロ。往復で1時間半あれば十分だと思った。
しかし樹海ロードとはほど遠い状況だった。トラックが多い。車も多い。

路面は荒れ放題。しかも工事中の所がある。7〜8キロ行ったところでいやになって引き返した。
おまけに雨まで降ってきた。二度と走りたくない道だ。
帯広と札幌を繋ぐ道だから、交通量が多いのは当たり前なのだが。
昼食の時間にはなっているし、腹も減ってきた。だが、雨足が強くなりそうだった。

237号へ戻り、門別方面へ急ぐ。ここも路面が荒れていてハンドルが取られ、走りにくい。
我慢しながら80キロ前後で走る。

 平取という所にアイヌ文化博物館というのがあったので寄ってみる。
二風谷(にぶだに)という地名らしい。疲れているせいか、あまり熱心に見る気になれなかった。

 ここで家に電話し、様子を聞く。特に変わりはないという。
「慌てて帰ったらいかんよ、敦賀で泊まって帰りよ」と母が言う。
分かってはいるが、フェリーが着いたらそのまま走ることに決めていた。
心配するといけないので、母には言わなかった。

 平取のローソンに寄り、コーヒーとカレーパンを食べた。取り合わせが悪かった。

 食べる間だけ休んで、富川まで南下し、ガソリンを入れる。
明日フェリーを下りてから、すぐに走り出したかったからだ。
ついでにバイクを洗った。ただで高圧の洗車機を貸してくれた。
汚れはすっきりとは落ちなかったが、塩分は落としておきたかった。
それにしても汚れきって錆がぽつぽつ浮いてきている。
このツーリング中に走行距離が10000キロを越えた。オイルも4000キロ換えていない。

 せっかく洗ったのにまた雨が降ってきた。急いで苫小牧東港へ。
5時頃着いた。他に客はなく、静かだった。7時間以上待たなければならない。


 大阪に住む娘に電話した。元気らしいが、忙しくていつ九州に帰れるか分からないという。
妻のことは姉から聞いたらしいが、入院のことは知らない。言おうかと思ったが、止めた。


 明日の天気が気になる。関西方面は台風11号の影響で大雨らしく、あちこちで洪水が起きているらしい。
明日の朝まで雨が降りやすい天気だと言っていた。夜には上がってほしい。


 フェリーの時刻表を見ると、苫小牧から新潟などに寄って翌々日の早朝に敦賀に着く便もあるらしい。
夕方7時に出航だ。しかし木曜日にはその便はなかった。水曜日ならあった。
昨日来ればその便に乗れたのにと残念に思った。その便なら金曜日の夜には九州に着くことが出来た。
昼間なら高速も走りやすかったのに。

だが、関西が雨なら早朝の便でも高速は走れないだろうと思い、慰めることにした。
 しかし、明日はどうなのだろう?





(フェリーのカフェテラスにて)

 日本海は穏やかで空も晴れている。
昨夜苫小牧東港に着いた時には、乗船客が少ないのではないかと思っていたが、
遅くなるにつれて人々が集まってきた。

 8時半に敦賀からのフェリーが着き、バイクもたくさん降りてくる。
雨の中をカッパを着て走り去っていく者やこれから始まる旅の喜びに
歓声を上げながら写真を撮り合っているグループなどで一時は賑わった。

私は7月26日に道雪さんに迎えられた時のことを思い出していた。
あの夜も雨だった。思えば半分くらい雨の中で過ごしたような気がするが、
こうやって無事に帰りのフェリーまで辿り着いたことをまず喜ばねばならないだろう。



 一体どうして多くのライダーが北海道に来たがるのだろうと考えてみる。

昨日会った島原からの人は言っていた。
旅を終えて帰ったら、また行こうという気はなくなるんだけれど、次の夏が近づくと旅の支度を始める、と。
彼は一度目はただ早くあちこちを見たいと思いながら走ったという。
二度目からはある場所に留まり、気に入れば何日でもいて、釣りをしたり温泉に入ったり、
祭りに参加したり、そこでの生活を楽しむために来るようになったと言う。

私の場合はどうだったか。北海道を選ぶ必然性はあったのか。
どこでも良かったのかもしれない。

旅を終えてみて、自分でははっきり意識してはいなかったが、
心の奥底で自分と向かい合う時間が必要だと感じていたのかもしれないと思った。

そういう意味では満足できる日々を過ごしたと言える。
誰にも指図されず、自分の行動を決めることが出来る日が10日以上も持てる機会は学生時代以来だった。

 だが、旅の実際を検証してみれば、地図やガイドブックで見て、
人から聞いて、よく知られている場所を巡ったに過ぎない。

行ったということを証明するためのように、あちこちで写真を撮り、次の場所へ急ぐ。
これではツアーと同じだと思いながら、そういう行動に終始した。

一人で行動する中でも自分の思考は深まらず、日を追うに連れて感受性が鈍っていく。

日常生活レベルのことばかり考え、身を置いたところから何も汲み取ることが出来なかった。

 要するにいやというほど自分がどういう本質を持っているのかということを突きつけられただけなのかもしれない。
それはそれで仕方がないのだろう。自分は自分以上にはなれないのだから。

 自分以外の何ものでもない自分を抱えてこれからも生きていくしかない。
私に与えられた時間がいつまでなのか分からないが、それを生きていくことが一つの旅なのだ。






続く・・・