蒼穹(鹿児島一泊ツーリング・第一章 出発) 羊の数を数えても効果のないことは半世紀近くも生きれば分かることで、そんなときはバーボンを一杯引っかけて寝ることにしている。 しかし、熱帯夜では体温が上昇して、却って暑くて眠れないと思ったが、ロックで一杯飲む。 案の定眠れない。明日の遙かな旅路を思いながら、階下の時計が1時の時報を打つのまで聞いた。 目覚ましは5時に掛けてある。ふと睡眠不足で走ることの怖れが頭をよぎる。 夜の蝉がじりじりと鳴く。今はニイニイ蝉と油蝉の端境期だ。 少年の頃のこと、蝉の幼虫を掘り出しては羽化するまで何匹も飼ったことを思い出す。 油蝉は羽化の瞬間が美しい。乳白色の羽の色は他のどんな蝉にも劣らない美しさだ。 何の罪を背負ったのか、成虫になってしまうととたんにあの色になる。 自然の摂理は残酷で目立たないことこそが生き延びる唯一の道だと油蝉に教えている。 まるで自分を見ているようだ。そんなことを考えていた。 次の時報は聞いた覚えがないから、多分1時半までには寝入ったのだろう。 目が覚めると4時半前だった。高ぶりが刹那のうちに押し寄せてくる。もう寝てはいられない。 そばに寝ているつれ合いを起こさないようにそっと立ち上がり、靴下を履く。 つれ合いの寝息はいつも静かで、勝手に旅立つ私にいつも無頓着だ。だからこそ無事に帰りたいといつも思う。 次から次へと出発までの手順が頭の中に浮かんできて、睡眠の足りない頭の中が混乱してくる。 靴下を片一方だけ履いたまま昨日から準備していた服が何となく気に入らず、音を立てないようにタンスの引き出しを開けて、いつもの服を探す。 となりの部屋に行くとパソコンが置いてあり、着替える途中で書き込みをしておこうと思い、上着だけ着て、靴下を片方履いた格好で掲示板に向かう。 今日集まる仲間の顔を思い浮かべる。未知のひとの顔は分からないがバイク好きの顔であることは確かだ。 夏の朝はすでにこれから来るであろう猛暑の予兆をその表情に浮かべながら明けようとしている。 一日にほんのわずかな時間だけ見せる穏やかな爽気が仄明るい大気に満ちて、旅立つ自分を優しく包んでくれる。 それは旅立ちの前にいつも訪れるほんの少しの気後れを、前向きに押してくれるようだった。 少しだけ重く感じるヘルメットを持ち上げ、シールドの汚れを落とす。 夏場の虫たちが死んでへばりついている。 機嫌良く明かりに向かって飛んでいた虫たちに訪れた突然の死を思った。 無限の光明を求めて最後の瞬間に求めたものを手に入れたと思い、一瞬でも幸せを感じながら死んだであろうか。 私にとっての光明はどこにあるのだろうか。 それに向かって飛んでいって死んだとしても一瞬でも幸福を感じさせてくれる何か。 旅立つ前に感傷に耽ってはいけない。しかし、バイクに乗ることは、少し「死」に近いところに自分を置くことだ。 神経が研ぎ澄まされてくる。 鋭敏になっていくのをありありと感じる。 バイクに火を入れる。 機関の内部の様子を思い浮かべる。熱い闘いとせめぎ合いが行われているに違いない。 準備は怠りなくやった。何が起ころうと後悔しないだけのことは。 ギアを入れる。アクセルを捻る。 まだ明け切らない彼方の空に向かってバイクを走らせる。 前輪と後輪の二点で支えられた車体に身を委ねながら、次第に野性が蘇り始めるのを感じる。 薄靄のようにかかっていたつまらない感傷もすっかり晴れて、今はもう遠くで待っている仲間たちの顔が思い浮かぶだけだ。 どんな時もお互いの間では笑顔しか見せない。 最高の瞬間を共にしているのだから当たり前のことかもしれない。 みんな日常はどんな生活をしているのだろうとふと考える。 生きるためにしなければならないことを背負いながら、その年齢なりの自分を生きなければならない。 生きるということは選択の連続で、その結果がここにある。 広がっていく夢を追いかけ続けることは、私の場合ほぼ終わった。だが、見果てぬ夢を追い続けたいという意志が少しだけ残っていて、時々胸を刺す。 こんなふうに人生が展開していくなどということは生きてみなければわからなかったことだ。 バイクに再び乗るようになるということも。 光よりも早く走れば時を超えることが出来る。 人間の早く走りたいという欲望は時を超えて過去に戻りたいという意志の表れなのか、それとも未来に、という意志なのか。 坦々と忠実に鼓動を刻むバイクに愛しさを感じながら、さらにスロットルを開く。 追いかけてくるものから逃げるように振動と闘いながら、N氏の後を追う。 半世紀生きたN氏の後ろ姿からは、少年の気配が漂ってくる。 20年前、職場にDTという恐ろしく燃費の悪いスクランブラーで颯爽と登場した時と全く変わらない。 あのバイクの振動が私にも少年の日を想起させたきっかけとなり、私は再びバイクのハンドルを握ったのだった。 それからN氏の結婚まで二人で林道を走り回った。数々の思い出が蘇ってくる。それから二十年後、私が彼を目覚めさせた。 ロングツーリングは何十年ぶりとのことだったが、やはりその喜びは隠しきれないようで、時々伏せるようにして高速を疾駆する背中に喜びの陽炎が立ちのぼっているようだ。 この世の全ての形あるものは、誕生の瞬間から地球という有限の空間にほんの少しの時間と空間を占めることを許される。 よほどの唯物論者でないかぎり、存在を超えた何者かの意思を感じるはずである。 何者かによって与えられた生を生きている。 「在る」ことの悲哀や歓喜を表現する方法は数限りなく存在する。 私たちバイク乗りにとって最大、最高の表現法がツーリングである。 空間を切り裂いて移動することの喜び。本当の自由に少しだけ近づくことを許された開放感。 そして、仲間という不思議としか言いようのない縁で結ばれた同時代を生きる人たちとの邂逅と、心を通わせることの出来る喜び。 N氏のあとを追いながら、次第に陶酔感さえ感じ始める。 「岐路」はどこにでも用意されている。 高速道路の岐路は人生の岐路よりずっと分かりやすい。 私たちは紛うことなく熊本方面の道に入った。 もうすぐTさんたちに会える。どんな笑顔で迎えてくれるだろうか。 続く・・・ |